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名古屋家庭裁判所 平成4年(少ロ)1号 決定 1992年12月24日

本人 M・S(昭和49.7.30生)

主文

本人に対し、金30万円を交付する。

理由

1  当裁判所は、平成4年11月25日本人に対する平成4年少第A2765号道路交通法違反保護事件について、送致事実が認められないことを理由として、本人を保護処分に付さない旨の決定をした。同事件の記録によれば、本人は上記送致事実と同一の被疑事実に基づき逮捕され、勾留に代る措置を受けた上、当裁判所に送致されたことにより観護措置決定とみなされ、少年鑑別所に収容されていたことが認められる。

2  そこで、本人に対する補償の要否について検討するに、上記保護事件記録によれば、平成4年7月6日に逮捕され、同月8日勾留に代る措置を受けて名古屋少年鑑別所に収容され、同月17日上記保護事件が当裁判所に送致されるとともに観護措置決定とみなされ引き続き名古屋少年鑑別所収容が継続され、その後同月29日に観護措置が取り消され、名古屋少年鑑別所から退所したものであり、その身体拘束の日数は、合計24日間であることが認められる。

また、本人には家庭裁判所の調査もしくは審判などを誤らせる目的での虚偽自白の存在など、少年補償法3条各号に規定する事由は認められない。

したがって、少年補償法2条1項に基づき、上記身体拘束日数24日について補償をすべきと考える。

3  次に、補償金額について検討するに、上記保護事件及び名古屋家庭裁判所家庭裁判所調査官○○の調査報告書によれば、本人は、逮捕当時父親の経営する○○工業株式会社に建築作業員として就労し、日給9200円を得ていたこと、名古屋少年鑑別所を出た後、翌日から同社に勤務し日給9200円を得ていたこと、逮捕当初から一貫して非行事実を否認していたこと、逮捕段階から弁護人(当裁判所送致後には改めて付添人となる。)を依頼して防御活動をしていたことが認められ、これにその他上記記録によって認められる本人の年齢、生活状況等諸般の事情を併せ考慮すると、本人に対しては、1日1万2500円の割合による補償をするのが相当である。

4  よって、少年補償法5条1項により主文のとおり決定する。

(裁判官 杉浦徳宏)

〔参考〕 保護事件決定(名古屋家 平4(少)A2765号 道路交通法違反保護事件平4.11.25決定)

主文

少年を保護処分に付さない。

理由

1 本件送致事実の要旨は、「少年は、Aほか暴走族構成員約300人と共謀の上、平成4年5月2日午前1時20分ころ、名古屋市千種区○○×丁目×番地先路上において、信号機により交通整理の行われている通称a交差点を自己の運転する自動二輪車(○○○×××○○○)をはじめ、自動二輪車約100台並びに普通乗用自動車約50台の車両を連ね、又は並進して、対面信号機の表示する赤色の灯火信号を無視して○○方面から○○方面に向かって時速約20キロメートルで西進直進したため、折から、青色信号に従って同交差点を○○方面から○○方面に向け南進直進しようとするB(当時21歳)運転の自動二輪車(○○○○××××)をして衝突の危険を感じさせ、同人の運転を誤らせ道路上に転倒させた上、Aが運転する自動二輪車の車両前部をBに衝突させ、よって同人を死に至らしめ、さらに、青色信号に従って同交差点を○○方面から○○方面に東進直進しようとしたC(当時25歳)運転の普通乗用自動車(○○○××○××××)をして衝突の危険を与えてその進路を妨害し、同人をして停止を余儀なく継続させ、もって共同して著しく道路における交通の危険を生じさせるとともに著しく他人に迷惑を及ぼす行為をした」というものである。

これに対し、付添人は本件送致事実は存在しなかった旨主張し、少年も捜査、審判を通じ一貫として付添人の主張に沿う供述ないし陳述をする。少年の主張する事実は、次のとおりである。すなわち、5月1日深夜から翌日未明にかけての集団暴走には参加したが、すぐに途中で集団からはぐれてしまい、そのまま集団に合流することなく、5月2日午前0時ころ名古屋市瑞穂区所在の甲(以下「甲場所」という。)に到着し、同日午前1時ころ自宅に帰ったもので、a交差点はもとより名古屋市港区所在の乙ガソリンスタンド(以下「乙スタンド」という。)や名東区丙所在のガソリンスタンド(以下「丙スタンド」という。)に行ったことはないという。

ところで、本件は、少年のa交差点での共同危険行為を客観的に証明する証拠(例えば写真等)は存在せず、少年をa交差点及びそれ以前の暴走経路において目撃したとする共犯少年らの供述があるだけであるから、その信用性について検討する。

2 一件記録によれば、少年は暴走族ア(以下「ア暴走族」という。)を主宰する者(第5代目総長)であること、ア暴走族は名古屋市瑞穂区内を中心とする6人程度のグループであること、ア暴走族の構成員はいずれも同区内の名古屋市立○○中学校出身者であり、集会は毎週日曜日午後8時ころに瑞穂区の甲場所で行われること、親交のある暴走族イ主催の命日暴走が5月1日夜行われることを暴走族ウ(以下「ウ暴走族」という。)の総長Dから知らされると少年は構成員に対しその集団暴走に参加するので甲場所に同日午後10時こち集合するように前週の集会で告げたこと、5月1日深夜から翌日未明にかけての集団暴走には、少年、E’ことE、F’ことF、G、H、Iが参加したこと、当日午後10時30分ころア暴走族の構成員は甲場所に集合し、赤色の特攻服に着替えて、名古屋市内の暴走族の集合場所である名古屋市南区所在の丁(以下「丁場所」という。)に向けて同日午後11時20分ころ出発したこと、少年は所有する自動二輪車(○○○×××○○○)でFを後部座席に乗せて参加したこと、丁場所に午後11時30分ころ到着し、そこで他の暴走族と合流して集団暴走に参加したことの各事実が認められる。

3 ところで、一件記録にはア暴走族の構成員であり当日少年運転の自動二輪車に同乗していたFの供述には、丁場所を出発した後、乙スタンドから丙スタンドを走って暴走中にヘルメットを被った人が倒れていたところ(a交差点)を少年とともに走行したとする部分(Fの司法警察員に対する平成4年6月23日付け及び同年7月13日付け各供述調査書謄本)があり、また、同じくア暴走族の構成員であり集団暴走に最後まで参加したHにも、「丙スタンドを再スタートしUターンをして市内中心部に向けて少し走ったころ、僕たちの単車の右側を前方に走り出てゆく僕たちのリーダーM.S運転F’(Fのこと)君同乗の単車・・・が元気よく走っている姿を見ております。」(Hの司法警察員に対する平成4年6月19日付け供述調査謄本)との供述が存在する。

一方、一件記録には、Fが少年と同旨の供述をしている調書が存在し(Fの弁護士○○に対する平成4年7月14日付け供述録取書)、司法警察員に対しても、当初は少年と同旨の供述をしていたことをうかがわせる捜査報告書も存在する(司法警察員作成の平成4年7月14日付け「被疑者取調べ状況報告書」と題する書面)。そして、Fは、同月29日当審判廷において、少年と同様に乙スタンドや丙スタンドに到達する前に集団をはぐれたため途中で帰宅した旨供述した(証人Fの当審判廷における供述)。その供述態度は自然で無理がなく、内容も具体的であると思料されるが、供述内容に変遷がみられることを追及されると「早く帰りたい一心で虚偽の供述をした。」という。さらに、Fは平成4年7月16日検察官から取調べを受けているが、警察において本当のことを話したというだけに止まり、積極的にa交差点を走行した旨の供述はしていない(Fの検察官に対する同日付け供述調書)。結局、Fの証言は内容の重要な部分に変遷があり、少年とともにa交差点付近を走行したとの証言はにわかに信用しがたい。

また、Hは、平成4年9月10日湖南学院にて行った証人尋問期日において、少年らとともに本件集団暴走に参加し、甲場所を出発して丁場所に行ったことは認めるものの、丙スタンド及びa交差点付近で少年を目撃したことについては、当日車の台数が多かったことからどこまで一緒だったか不明であり、現在となっては記憶がない旨供述した(証人Hの湖南学院において行った証人尋問期日における供述)。本件集団暴走は死者が出たことで社会問題になっていたこと、事件後4か月程度しか経過していないこと等から記憶がないというのは首肯しがたい面も否定できないが、Hが本件集団暴走参加の非行事実により中等少年院送致となり現在湖南学院に入院中であり、とりたてて少年をかばう必要性のないことを考慮すると証人Hとしては、自己の記憶に従って供述しているとみることも可能である。してみると、Hの丙スタンド及びa交差点付近で少年を目撃したとの証言もにわかに信用しがたい。

4 次に、一件記録には、愛知県豊明市内の暴走族エ(以下「エ暴走族」という。)の構成員であるJが、「又この時、俺の右斜め後方の一番(a)交差点の内寄りを体がいいア暴走族の総長……M.Sが知らない奴をケツに乗せ○○○×××○○黒赤色フアッションバー付を運転しておりました。」と供述する部分(Jの司法警察員に対する平成4年7月10日付け及び同月13日付け並びに同人の検察官に対する同月14日付け各供述調書謄本)があり、また、同じくエ暴走族の総長であり、少年とは栃木県での自動二輪車免許取得合宿で一緒になったKの供述にも、「丙スタンドで……体憩をしている途中、俺達の近くにいたア暴走族のM.SにM.Sの乗っていた黒色の○○○×××について誰の単車と聞いたところ俺のという会話をしております。」(Kの司法警察員に対する平成4年7月10日付け供述調書謄本)との部分が存在する。

ところが、Jは、平成4年7月28日当審判廷において、a交差点付近で少年を目撃したことはない旨供述した(証人Jの当審判廷における供述)。Jの捜査段階における供述を子細に検討すると、Jと少年はエ暴走族の総長Kを通じて知っていた程度でそれほど深い交際ではなかったこと、当日ア暴走族は赤色の特攻服を着用していたところ、Jの記憶にはそれが鮮明でないことの事実がうかがわれ、これらの事実に照らせば、Jの捜査段階における目撃証言はにわかに信用しがたいというべきである。また、Kは同年10月6日湖南学院にて行った証人尋問期日において、丙スタンドにおいて少年と単車の所有関係に関する会話をした旨供述した(証人Kの湖南学院にて行った証人尋問期日における供述)。ただ、詳細な記憶については曖昧な部分が多く、Kによれば、本件集団暴走の前後には比較的大きな集団暴走があり、Kも少年もそのいくつかに共通して参加していること、少年の特攻服が赤色ということを鮮烈に記憶していること、少年が赤色特攻服を着用して走行することは稀で、2ないし3回程度しか目撃していないこと、丙スタンドで少年と会話したときも少年は赤色特攻服を着用していたこと、しかしながらそれが本件集団暴走時であったかについてははっきりとした記憶がないことの各事実が認められる。してみると、Kの目撃証言もにわかに信用しがたいというべきである。

5 さらに、少年及びFは、暴走集団から離脱して帰宅途中の5月2日午前0時ないし1時ころ、暴走族「ウ暴走族」の構成員Lに名四国道(国道23号線)インターチェンジ下付近で会い、単車が故障している同人に対し、少年が2000円程度タクシー代として貸し渡した旨主張し、少年及びFの当審判廷における陳述ないし供述ならびに上記被疑者取調べ状況報告書には、その主張に沿う部分が存在する。そして、Lも、平成4年10月22日当審判廷において、ほぼ少年らの主張に沿う旨の供述をした(証人Lの当審判廷における供述)。Lは、別の集団暴走に参加した非行により名古屋少年鑑別所に収容されている者であり、少年らとは特に親しい関係があると思料することできず、その他少年を特別保護する必要性は認められないことから、Lの証言は一応信用することができると考える。

6 そして、少年の父親は、当審判廷において、少年が5月2日午前0時30分から午前1時ころ帰宅した旨陳述しており、父親の陳述内容を一応信用することとし、上記Lと名四国道(国道23号線)インターチェンジ下付近で同日午前0時ないし1時ころ少年は会っていたとするならば、時間的にa交差点に同日午前1時20分ころ少年が走行することは無理と考えざるを得ない。そうだとすれば本件送致事実記載の日時に少年がa交差点を走行したことについて合理的な疑いをさしはさまない程度の証明があったとはいえないといわざるを得ない。

また、道路交通法118条1項3号の2、 68条にいう共同危険行為の禁止は、その立法趣旨から具体的危険犯と解するのが相当であり、その共謀共同正犯の罪責を問うためには、事前の共謀だけでは足らず、少なくとも共同危険行為をなした現場に存在していることが必要というべきである。本件では、少年には共同危険行為の事前共謀は認められるものの、上記のとおり本件送致事実記載の日時にa交差点を走行したとする合理的な疑いをさしはさまない程度の証明があったとはいえないのであるから、共謀共同正犯の罪責も問えないと考える。

7 したがって、本件については、少年に非行がないことになるから、少年法23条2項を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 杉浦徳宏)

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